鼻をかすめる良い匂いが、浅い眠りのふちから俺を呼び起こす。
重いまぶたを押し上げると、 キッチンからやけににぎやかな音が聞こえてきた。
「なんだ、来てたのか……」
そう呟いた声は少しかすれていたが、 ちゃんとあいつの耳には届いたらしい。
キッチンの音が止まって、 代わりにパタパタと可愛い足音が近づいてくる。
「起こしちゃった?」
心配そうな顔であいつが俺の顔を覗き込む。
間近で見た大きな瞳に、いやおうなくドキリと心臓がはねた。
そのまま抱きしめたくなる気持ちを、 ギリギリのところで踏みとどめる。
「いや、だいぶ寝た」
「そう、ごめんね。こういうの慣れなくて」
あんまりしょんぼりした顔をするから、俺は少しだけ意地悪く笑う。
「そんなの知ってる」
さて、怒るだろうか、それとも泣くか。
そんなくだらないことを考えていたら、 意外なことに、あいつは安心したような笑顔を見せた。
「良かった。思ったよりも元気みたい」
あまりに素直な笑顔を見ていたら、 子どもじみた自分の言動が恥ずかしくなった。
熱が出た、と短いメールだけを一方的に送った。
電話をすればどうしても会いたいと言いそうだったから。
だけど結局は心配させたみたいで、彼女はこうして来てくれた。
片付いている部屋、干された洗濯物、そして美味そうな匂い。
申し訳ないと思う反面、来てくれたことがすごく嬉しかった。
家事をやってくれて助かったとかじゃなくて。
そうじゃなくて――、ただ、顔が見たかったから。
その笑顔も声もすべてが愛おしくて仕方がない。
こんな近くで微笑まれたら触れたくなる。
俺のものだって確かめたくなってしまう。
どうやら俺、思ってる以上に寂しかった…… のかも、しれない。
「おかゆを作ってみたんだけど。 少しでも食べられそう?」
「あぁ、欲しい」
そう言って体を起こすと、ぐらりとめまいに襲われた。
「大丈夫ですか!?」
慌てたあいつが、とっさに抱き支えようと手を伸ばす。
もちろん体格の差もあるけれど、 もとより力が入らなくて自分の体が思い通りに動かない。
当然と言えば当然の結果、 俺はあいつを巻き込んで再びベッドに倒れこんでしまった。
「悪い、大丈夫か?」
必死に体を起こすと、あいつがくすっと笑った。
「私が心配したのに、 逆に元春さんに心配されちゃったね」
小さく舌を出して肩をすくめる姿に、 さっきとは違うめまいがしそうだった。
「熱いですね」
冷たい手が頬に触れていた。
その感触がやたらに気持ち良くて、手放せなくなる。
「お前こそ、なんでこんなに冷たいんだ」
離したくない。
もっと触れていたい。
もしこの熱を分け与えられたら――。
「あの……、元春さん?」
「ごめん――」
短い懺悔の言葉を残して、俺はあいつを抱きしめる。
小さくて、柔らかくて、そして心地良い温もり。
ずっとこうしたかった。
目が覚めて、俺を見つめるその瞳に出会った瞬間から、ずっと。
俺の気持ちに応えるように、小さな手がギュッと背中に回る。
「なんで謝るんですか?」
抱きしめていても大きな瞳からは逃げられない。
俺をどこまでも追いかけて離さない、熱いまなざし。
「風邪がうつったら、俺の責任だな」
「それなら元春さん、ちゃんと責任取ってくださいね」
そう言うと、あいつが唇に触れるだけの優しいキスをした。
突然のことに驚いて言葉も出ない俺に、 また小さな舌を出してくすくすと笑う。
「マジで風邪うつるぞ、バカ」
言葉とは裏腹に、俺はあいつの唇を求めて止まない。
逃がさないように意地悪な舌を絡め取る。
心地良い肌の温もりを、とろけるような熱に変えてしまいたい。
だってそうだろう?
俺はいつだってお前の熱に浮かされているんだ。
風邪なんか比じゃないぐらいの、とびきりの甘い熱。
もし俺もそれをお前に与えられるなら、 忘れられないような熱をその体に刻み付けたい。
お互いを甘く結びつける鎖のように――。
〜 Fin 〜