体育館横を通りかかったのは、本当にただの偶然だった。
クラブ活動で遅くなってしまったので、 少しでも近道して帰ろうと思い、何気なく通りかかっただけだった。
「だぁー! また外したっ!」
不意にそんな声が聞こえてきて、私は驚いて足を止める。
「今のって、和馬くんの声?」
そしてそのまま腕時計に視線を向けて、 指し示す遅い時間に首をかしげた。
「今日はバスケ部の活動はなかったはずなんだけどなぁ」
空耳かなとも思ったけれど、 和馬くんの声だと気づいてしまった以上、無視して通り過ぎることはできなかった。
「和馬くん、いるの?」
そっと体育館をのぞき見ると、夕焼けに染まる床に、 和馬くんが仰向けに寝転がっている姿が飛び込んできた。
「マジでやばいな、頭クラクラしてきた……」
そう呟いた和馬くんの周りには、バスケットボールがいくつも散乱していた。
自主トレをするときだって、 こんなめちゃくちゃにボールを使うようなことはしない。
「どうしたの、体調悪いの?」
心配になってそばまで駆け寄ると、 和馬くんはそれを完全否定するような勢いで体を起こす。
「そんなんじゃねーよ! 今すっげー気分良いんだ。止めたってムダだぜ」
そう言って近くにあるバスケットボールを拾い上げると、 そのままゴール下まで駆け出していく。
だけど、いつもなら簡単に入るはずのシュートが、 今回ばかりはゴールリングにかすりもしないで虚しく床に跳ね返った。
「また外したか」
どうやら今日は調子が出ないようだ。
動きにいつものようなキレもないし、 見ていてどこか危なっかしい感じがする。
「少し休んだ方が良いよ」
そう言って、私は和馬くんのカバンからタオルを取ってあげようとした。
だけどタオルに辿り着く前に、私の手はぴたりと止まってしまう。
見慣れたラッピングの箱がカバンから顔を出していたからだ。
「和馬くん、もしかしてチョコレート食べた?」
「なんだよ、ダメなのかよ。お前がくれたんだろ」
「う、うん。そうなんだけど……」
封の切られた高級チョコの箱を目の前にして、 まさか……、と血の気が引く思いがした。
もちろんこのチョコレートは、 私がバレンタインデーのプレゼントとして和馬くんにあげたものだ。
でも、好きでこれを買ったわけじゃない。
買いに行くのが遅くなってしまったため、 お店に残っていたのがこれしかなかったのだ。
だからウイスキーボンボンをプレゼントすることになっちゃったのは、 仕方のないことだった。
高校生があげるチョコにしてはかなり大人びたものだとは思ったけれど、 相手が和馬くんとなれば、あげないわけにはいかなかった。
今でもチョコを渡したときの和馬くんの嬉しそうな笑顔が目に浮かぶ。
だから私はウイスキーボンボンをプレゼントしたことを後悔していなかった。
「あー、ホント入らねぇ。手元が狂うなぁ〜」
酔いが回った状態では、動きにいつものキレがないのも頷ける。
ほんのりと赤く染まった和馬くんの横顔を見て、 私は初めて自分の行動を悔いた。
だってまさか和馬くんが学校にいる間にチョコを食べちゃうなんて考えなかったし、 こんなに簡単に酔っちゃうなんて思ってもみなかったんだもん!
「ね、ねぇ。もう遅いし、帰ろうよ」
まったく帰る気配すら感じられない和馬くんに、それとなく催促する。
だけど返ってきた言葉は、期待を裏切るものだった。
「じゃあお前帰れよ。 俺はシュートが決まるまで、今日は意地でも帰んねぇ」
「和馬くん!」
「うるせぇよ、バーカ!」
悪態をつくと、和馬くんはそのままバスケを始めてしまった。
ほろ酔いの危なっかしい状態のまま置いて帰れるわけもなく、 私は仕方なくそんな和馬くんを目で追うしかなかった。
「あー! またダメかぁ」
何度目かになるシュートも、やはりゴールリングにはじかれてしまう。
和馬くんは悔しそうに肩を落とすと、 諦めたのか、そのまま床にごろりと寝転んでしまった。
「今日はもう帰ろうよ。送っていくから、ね?」
まさか私のあげたチョコが原因でこんなことになっちゃってるなんて想像もしていないだろう和馬くんは、 当然ながら不可解な顔をする。
「なんだそれ、意味分かんねぇよ」
軽く睨み返されて、私はそれ以上なにも言えなくなってしまった。
床に腰を下ろすと、ひやりとした冷たさが伝わってきた。
ほてった体を冷ますにはちょうど良いのだろう、 和馬くんは目を閉じて、誰に言うでもなくぽつりと呟く。
「俺はバスケが好きなんだ。 だから俺からバスケを取るんじゃねーよ」
それは本音なんだろう。
なかなかシュートが決まらないとか、 もう時間が遅いとか、そんなことはどうでも良いんだ。
ボール片手にコートの中を走り回っているだけで、和馬くんは幸せなんだろう。
「うん、分かってる」
「全然分かってねーよ、お前は。 俺よりでかいヤツをフェイントでかわしたときとか、すっげぇ高く飛べたときとか、 シュートが決まったときとか。その瞬間がたまらなく好きなんだ。……そう、好きなんだ」
そう言うと、和馬くんは手で顔を覆った。
「好きで好きでたまんねぇ。 毎日頭の中から離れないし、いつもそのことばっか考えてる……」
「本当にバスケが好きなんだね」
私の言葉に反応したのか、和馬くんはいきなり起きあがると、真剣な眼差しを向けてきた。
「バスケじゃねぇよ、お前のことだよ!」
「えっ?」
完全に酔いが回っているんだろう、私を見つめるのは赤みがかった頬に潤んだ瞳。
それなのに不思議と言葉には強さがあり、向けられた瞳には力があった。
そう。その目に見つめられたら、そらすことなんてできない――。
「なんで好きなんだろ。 バスケみたいに理由が思いつかねぇ。気がついたらお前のことばっか考えてる。 お前の笑顔が頭から離れねぇんだ」
「和馬くん……」
「だいたいさ、 俺がこんなに好きなのにお前は全然気づきもしねぇし」
和馬くんはそう言うなり、 ふて腐れたようにまた床にごろりと寝転んでしまった。
それにつられるように、私も同じように床に寝転んでみた。
その途端、天井がものすごく遠くに見えて、どきりとした。
「手を伸ばしても、チョウチョみたいにふわふわと飛んでいっちまって、 捕まえてらんねぇんだ。その小さな体を抱き締めたいし、髪にも触れたい。 手だって繋ぎたいし、キスだってしてぇのに。 いつも俺を惑わすようにこの手からすり抜けていっちまう。 こんなに好きなのに、なんで伝わらねぇんだよ」
――あぁ、きっとこれは魔法なんだ。
今この瞬間にだけ本当の気持ちを素直に口にできる、とっておきの魔法の時間。
「好きで好きで、もうなんも考えらんねぇ。 お前の笑顔見てたら、バスケのことだって忘れちまう。 どうしたら伝わるんだよ。どうしたら好きだって、分かってもらえるんだよ……」
和馬くんの本音を聞きながら、私の心は言い知れない幸福感に満たされていた。
永遠に続けば良いと願ってしまうほどの、幸せで満ち足りた気持ち。
それを伝えたくて、隣にいる和馬くんに手を伸ばす。
「……和馬くん?」
なんの反応も返ってこないので、体を起こして顔をのぞき込んでみた。
「……っ!」
じっとこちらを見つめる熱い視線とまともに目が合って、いやでも心臓が飛び跳ねる。
「あっ。――きゃっ」
反射的に距離を取ろうとして、でもすぐに腕を掴まれて引き戻された。
床に寝転ぶ和馬くんの上に覆いかぶさるようにして、ぎゅっと強く抱きしめられた。
「お前のことが、好きなんだ」
耳をくすぐる甘い声と、とくとくと音を立てる心臓の音。
それ以外の音はなにも聞こえない。
世界中でたった二人きりになってしまったような感覚に、落ちていく。
「和馬くん……」
自分の声すらもやけに遠くに感じた。
大きな手が私の頬に優しく触れる。
その手に私は自然と自分の手を重ねていた。
「――ダメ、か?」
「ん。ダメじゃ、な……」
言い終わらないうちに私はキスで唇をふさがれていた。
初めて触れた唇は柔らかくて、熱くて甘く、そしてちょっぴりウイスキーの味がした。
〜 Fin 〜