ふと誰かの視線を感じて、私は書類から目を離した。
まばらな職員室をぐるりと見回すと、ドアの付近に一人の少女を見つけた。
なにやら大量のプリントを持って困ったような顔をしていたが、 私の視線に気がつくと、彼女は途端に明るい笑顔を浮かべる。
そのままぱたぱたと足音を立てて、私の机に駆け寄ってきた。
「すみません、氷室先生。今、大丈夫ですか」
そう声をかけてきたのは私のクラスの生徒で、 学級委員も務めてくれている少女だった。
「どうした。私になにか用だったのか」
「はい。プリントを持ってきました」
「プリント……?」
彼女にそんな頼みごとをした覚えはないのだが。
怪訝な顔をする私をよそに、彼女は手にしていたプリントの束を机の端に置く。
ちらりと目をやると、それは確かに先週私が配っておいたプリントだった。
「確か今日が提出日だと言っていましたので、 クラス全員分回収しておきました」
そう言った彼女の言葉に思わずハッとなる。
「あぁ、そうだったな。私としたことが、すっかり忘れていた」
そう軽く口にしたが、内心かなり焦っていた。
まさか自分で配っておいたプリントの提出日を忘れてしまうなど、 とんだ失態を見せてしまったようだ。
「すまない。ありがとう」
苦い笑みを噛み殺しながら礼の言葉を述べると、 彼女は慌てたように両手をぱたぱたとさせる。
「いえ。学級委員ですからこれぐらいのことは当然です。 でも氷室先生のお役に立てたのなら嬉しいです」
そう言ってにこにこと笑っていたが、ふと彼女は笑みを消して、言葉を続けた。
「あの、氷室先生。最近忙しいみたいですけれど、 あまり無理はしないでくださいね。忙しいときにはいくらでも私を頼って良いですからね」
それだけ言うと、彼女はぺこりと一礼し、失礼しましたと言って去ってしまった。
たったそれだけのことで、やけに部屋がガランとして見えた。
職員室のドアに消えた彼女の後ろ姿を思い出しながら、 私は手にしていたボールペンを机の上に投げ出した。
確かに彼女の言うとおり、 最近忙しくて心にゆとりがなかったのは事実だ。
やらなければいけないことに追われて、息をつく暇さえなかった。
背筋を伸ばすと、それだけで少し気分が和らいだ。
メガネを外して椅子に深く腰掛ける。
まぶたを閉じると、心地良い暗闇が私を出迎えてくれた。
「あのぉ、せんせぇ」
不意に声をかけられて目を開けると、 ついさっき帰ったばかりの少女が、不思議そうに私の顔をのぞき込んでいた。
くりくりとした大きな瞳が至近距離にあり、否が応でも心拍数が上がってしまう。
「ど、どうしたんだ」
突然の出来ごとに椅子から転げ落ちそうになるのを必死にこらえて、 私は机に置いたメガネに手を伸ばす。
クリアになった視界には、やはり先ほどの彼女がにこにこと笑顔を浮かべて立っていた。
「すみません。さっきのプリントにこれも追加しておいてください」
そう言って後ろ手に隠し持っていたなにかを、私の手に押しつけてくる。
見ればそれは、缶入りココアだった。
「ホットココア?」
ちょっと意外なものを見た気がして、思わず口に出して呟いていた。
指先に触れた缶の熱が、じんと心に染みるように熱い。
「はい。前に志穂ちゃんが、 疲れたときは甘いものが良いって言ってたから。あの、お嫌いでしたか?」
「いや、そういうわけでは……」
「それは良かったです。たまには息抜きしてくださいね。 根を詰めてばかりいたら倒れちゃいますよ」
その言葉を聞いたら、いつものように、 生徒からの贈答品は受け取りかねると言って返すことが出来なくなってしまった。
私を気遣ってわざわざココアを買ってきてくれたのだ、 今回は彼女の優しさを素直に受け取ることにした。
「そうだな。これはありがたくいただいておこう」
そう言うと、私はココアを手にしたまま椅子から立ち上がる。
すると互いの視線の高さが入れ替わり、彼女は私を見上げる形となる。
角度が変わっても変わらない彼女の嬉しそうな笑顔を見下ろしながら、 私はかけてあった背広に手を伸ばした。
「君が言うように、私は少し疲れているようだ。 どうも仕事がはかどらない。今日は帰って休むことにしよう」
そのまま歩いていこうとしたが、 彼女は不思議そうに小首をかしげたまま一向に動こうとしない。
なんとなく次の言葉を待っているようにも見えて、私は思わず顔を背けた。
「どうした、君も帰るんだろう。もう遅いから送っていこう」
「はい、ありがとうございます!」
背中越しから聞こえてくる彼女の元気な声に、ほんの少しだけホッとしている自分がいた。
ぱたぱたとついてくる足音を聞きながら、今この瞬間が私にとっての 一番の息抜きなのではないかと、そんなことをちらりと考える。
彼女の笑顔は手にしているホットココアよりもずっと、 私に心地良い甘さを与えてくれるものなのだから。
〜 Fin 〜