まだ卒業式の余韻が冷めやらぬ校内は、別れを惜しむ涙と、新しい明日へと向かう笑顔で溢れていた。
そんな生徒たちを見守りながら、ふと彼女の姿が見えないことに気づく。
それと同時に、まだ彼女を追っている自分に、思わず苦笑した。
もうタイムリミットは過ぎてしまった。
そろそろ三年前の自分へと時計の針を戻す時間が来たようだ。
――そう。ただ、それだけのことなのだ。
「氷室先生」
突然名を呼ばれ、私は平常心を取り戻そうと軽く咳払いをする。
振り向くと、彼女がいつもと変わらぬ笑顔で私を見上げていた。
「大変お世話になりました」
礼儀正しく深々と頭を下げる彼女の姿に、本当に今日で最後なのだと思い知らされる。
このように会話をすることも、この笑顔を見ることも、もう叶わないのだ。
「君のような優秀な生徒が卒業するのは、実に残念だ」
「でも春になればまた新入生がたくさん入ってきますよ」
「そうかもしれないが、誰も君の代わりにはなれない」
思わず出た本音を、彼女の明るい笑い声がかき消した。
「私よりも優秀な人がいっぱい入ってきますから大丈夫ですよ。氷室学級は不滅です」
――そうじゃない。
どれほど優秀だろうと、素直で真面目な生徒であろうと、君でなければ意味がない。
私の心を熱く燃えたぎらせるのは、君だけしかいないのだ。
「……そうだな」
人はこうも簡単に嘘がつけるのか……。
気持ちとは裏腹の言葉を口にした自分に、心底嫌気が差した。
満足そうに頷く彼女は、最後の瞬間でさえ私の気持ちに気づかない。
いや、むしろそう考えてしまうのは、私が未練がましいだけなのだろうか。
「氷室先生、三年間ありがとうございました。では、失礼します」
やはり礼儀正しく頭を下げると、彼女はくるりときびすを返し友達の元へと走り去っていく。
「本当にこれで良かったのか」
遠ざかる小さな背中に向けて、自問自答を繰り返す。
結局答えなどどこにもなく、さまよう視線はまた彼女の姿を探してしまう。
今別れを告げられたばかりなのに、タイムリミットはとうに過ぎてしまったのに。
――どうしても、断ち切れないのだ。
「そうだ。卒業おめでとうと言うのを忘れていた」
下手な言い訳を思いつき、私の足はとうとう彼女を求めて歩き出す。
いつから君を特別な生徒と思うようになったのだろう。
――いや、そうじゃない。
特別な生徒から特別な女性へと変わったのは、一体いつからなのだ。
気がつけば私の心は、君にどんどん支配されていた。
その笑顔に、放っておけない危うさに、毎日のように心を掻き乱された。
この想いを告げないのは、単に私が臆病者だからだろうか。
だが、どうせこの想いが消える運命ならば、せめて最後まで燃え尽きさせて欲しかった。
今日はそれぐらいの我儘なら許されそうな気がした。
卒業式というこの良き日なら。
「一体どこにいるんだ。頼む、最後のチャンスを……」
いつもは君が私を見つけてくれた。
どんなに忙しくても、どんなに落ち込んでいても、私の顔を見れば嬉しそうに笑って駆け寄ってきてくれた。
だから今度は私が君を見つける番だ。
誰よりも愛おしくて、誰よりも大切な君に、言わなければならないことがあるんだ。
ようやく見つけた君は、吸い込まれるようにそこへと入っていく。
私はまぶたを閉じると深く息を吸い込み、長くゆっくりとそれを吐き出した。
再び開かれた視界の先にあるのは、教会の扉。
私は覚悟を決めると、運命の扉へと手をかける。
その先で待っている君の元へとたどり着くために。
〜 Fin 〜