音楽の知識に限って言えば、彼女のそれはほぼ皆無に等しかった。
ピアノを弾くどころか、まともに楽譜すら読めない。
何度、俺のピアノを子守唄代わりにされたことか。
だから感想を求めたり、さらにはアドバイスのひとつでももらおうなんて考えは起きなかった。
どうやら彼女もその自覚があるらしく、コンクールが近づいてくると自然と姿を見せなくなる。
聞けば、自分がいることで気がそれてしまうんじゃないか、なんて答えが返ってきた。
本番はもっと厳しい目で他人と比べられ、はっきりと優劣をつけられるのだ。
彼女が一人いるぐらいで集中できないようでは、コンクールなど棄権したほうがマシだ。
いくらそう言っても、彼女は決して首をタテに振ることはない。
だから、彼女がその扉を開けて俺の前に現れたときは、正直かなり驚いた。
かける言葉が見つからず、ただ呆然と見つめているだけの俺に、彼女はいつもと変わらぬ笑顔を向ける。
そして鈴の鳴るような愛らしい声で、一言告げる。
「どうしたんですか、聖司先輩?」
内心、それは俺のセリフだろうと言いたかったが、声にはならなかった。
なぜこのタイミングで、なぜ彼女はこんなことを言ったのか。
そう、彼女の音楽の知識はほぼ皆無だ。
子守唄にしてしまうぐらい、ピアノのことなどまるで分かっていない。
それなのに、どうして俺の不調を見逃さず、気遣いの言葉がかけられるのだ。
聞けば、彼女は無邪気な笑顔で口を開く。
「私はピアノのことは全然分からないけれど、聖司先輩のことなら分かります。 ずっと見てきたから、いつも弾くピアノとなにか違うなってことぐらい、すぐに分かりますよ」
俺のピアノなんて、彼女にとってはただの子守唄かと思っていた。
――だけど、違った。
こんなにちゃんと聞いてくれていたのか。
知識とか、楽譜とか、そんなものに縛られない自由で素直な耳で、俺のピアノを聞いてくれていた。
今この不調を抜け出すには、そんな彼女の言葉が必要だった。
俺は目を閉じて息をゆっくりと吐き出すと、静かにまぶたを開ける。
視界に再び現れた彼女に、いやもしかしたら自分自身に、まっすぐ目を向ける。
「そうか、ならどこがどう違って聞こえたのか教えてくれないか。 なんとなく、という感じでも十分だ」
「聖司先輩のお役に立てるなら、とことん付き合いますよ」
彼女の力強い言葉を受けて、俺は何の迷いもなく再び鍵盤に指を走らせた。
〜 Fin 〜