「その時思ったんです。私は病気だからって全部諦めて生きていました。 傷つかないように守られて、戦うこともせずに逃げ続けていました。 もちろん少しでも長く生きながらえるためですし、 それが間違いだとは思っていません。でも――」
そっと目を伏せると、妃茉莉の声は小さくなった。
でもしっかりとした口調が強い意志を感じさせた。
「……でもね、それじゃ何も残らないんです。空っぽなんです。私という人間が生きた証がどこにも残らないんです。 たとえみじめだとかみっともないと思われても、それでも必死に生きてみたかった。 どうせ限りある命なら自分の意志で、自分の思うように、自分らしく生きたくなったんです」
誰もが当たり前のように思う人生を、妃茉莉は歩くことができなかった。
実際にはやれたかもしれないことも全部、先回りして取り上げられてきたのかもしれない。
そしてきっと、そのことすら疑問にも思わなかったんだろう。
だからこそ妃茉莉にとって、勝てないと分かり切った試合に全力で立ち向かう姿はかなり印象的だったはずだ。
その先にある敗北さえ忘れてしまうほどの充実感は、今まで感じたことのない体験だったに違いない。
「最初から全部諦めないで、とりあえずできることから始めてみようって思ったんです。 そしたら結構、いろんなことができました。体育祭でフォークダンスを踊ってみたり、社会見学にも何度か行きました。 文化祭では衣装を作りましたし、クリスマスパーティーにも参加しました。 そうそう、実はバレンタインデーにチョコレートも作ったんですよ。 ……結局、和馬くんには渡せなかったんですけど。でもね、本当に楽しかったんです」
いくら嬉しそうに話してくれても、残念ながら俺の記憶にはそんな妃茉莉の姿はどこにも無かった。
小さくひっそりと一人で楽しんでいたんだろう。
気づいてやれなかったことがなぜか無性に悔しく感じた。
「そっか。じゃあそのチョコ、どうしたんだよ」
「尽にあげました。それで、いっぱい怒られました。俺が手伝ってやったのになんで渡さなかったんだって、 今から渡しに行くぞって言い出してね、止めるのが大変でした」
当時を思い出したのか、妃茉莉がくすくすと笑っている。
まぁあの弟とのそんなやり取りなら俺でも簡単に想像ついて、笑えるっちゃ笑えるけど。
「あ、ごめんなさい。尽っていうのは……」
「お前の弟だろ」
「えっ」
反射的に答えてしまったことをひどく後悔した。
妃茉莉がみるみるうちに顔色を変えたからだ。
「……、尽に会ったんですね」
今さらごまかせるはずもなく、俺は黙って小さく頷いた。
「そう、ですか……。きっと和馬くんにヒドいことをたくさん言ったでしょう。ごめんなさい」
悲しそうな表情で妃茉莉が深々と頭を下げた。
「いや、俺も約束破っちまったわけだし。お前の弟が悪いってわけでもねぇし」
そう、むしろ全責任は自分にあるような気すらした。
もし妃茉莉がユーレイになって現れなければ、俺はきっとなにも知らずに生きていた。
妃茉莉の想いも、頑張った努力も、こいつを支えてきた弟やお袋さんや氷室たちの、 俺に向けられたたくさんの気持ちのほんのひとかけらでさえも知らずに。
今はそれがどれだけもったいないことだったのか、痛いほどに分かる。
「自分のやりたいようにすることで、私はたくさんの経験をしました。 でもそれと同時にたくさんの人に心配をかけてしまいました。 特に尽はなんにでも口を出してきてはいつも私を怒ってたんです。 でも誰よりも一番気にかけてくれて、いつもそばにいてずっと応援してくれていました。 きっと一番迷惑をかけてしまいました」
最初こそちょっと意外だと思ったが、でもよく考えてみれば納得できる部分もあった。
俺に対してあれだけの怒りを持つことは、逆に言えばそれだけ妃茉莉の目線でずっと見守ってきたとも思えたからだ。
「それなのに私は全然勇気が出なくて、ただ和馬くんを見ていることしかできませんでした。 しかもそれで満足していたんですから、余計に腹立たしかったんでしょうけど」
妃茉莉は立ち上がると、にっこりと笑って言葉を続けた。
「私は和馬くんを好きになって本当に幸せでした。 和馬くんは私にたくさんの可能性を教えてくれました。 なにげない日常がキラキラと光り輝くような、そんな世界に変えてくれました」
そこまで言って、ふと妃茉莉から笑顔が消えた。
今度は苦しそうに眉を寄せて呟いた。
「でもね、和馬くんを好きになって後悔もしています。 私はとても幸せだったけれど、そのせいで私の大切な人たちをたくさん苦しめてしまいました。 きっと私の自由にさせることにいろいろな葛藤があったと思います。 私は死んでしまったけれど、今でもまだ苦しみ続けているのかもしれない」
そのいい例が弟の尽なのだろう。
今でも俺を憎み続けているあんな姿なんて、とても妃茉莉には見せられない。
「だから、それが私の最大の過ちなんです」
悲しい目をして妃茉莉がそう言った。
「……本当に、そうなのか?」
俺の問いかけに妃茉莉は黙って頷いた。
だけど俺は釈然としない思いが心の中をかけめぐっていた。
〜 続く 〜