第26話 約束

しばらくお互い黙ったままでいたが、尽が短くため息をついて再びベンチに腰を下ろした。

「まぁでも意外だった。俺が思ってたスズカとは、ちょっと違った」

そう話す尽の瞳は、少しだけ光を取り戻しているように見えた。

――だが、それが逆に心苦しい。

俺は許してもらえるほどのことを、まだなにもしちゃいない。

「いや、違わねぇよ。俺だってあいつに会うまでは、きっとお前に会いに行こうなんて考えもしなかった」

「あいつ……?」

「えっ。あ、えーと……」

やべぇ、思わず口が滑っちまった。

どうごまかせばと焦れば焦るほど、まるで言葉が出てこない。

慌てる俺を見て、尽が軽く頭を振った。

「いや、良いんだ。そっか、スズカを変えた人がいるんだ」

「…………」

確かにそうだ。俺は変わった。

自分のちっぽけな世界ですら、うまく生き抜けずに逃げることばかり考えていたあのころに比べたら、今の俺は確かに変わった。

誰でもない、七瀬妃茉莉のおかげで。

その答えは胸にすっと入ってきて、妙に心地よかった。

「まぁそれがねーちゃんじゃなかったのは、残念だけど」

「――えっ」

尽の感情のこもらない淡々とした口調に、背筋がヒヤリとした。

いきなり現実を突きつけられたような気分だった。

「そっか、そーだよな。お前はなにも知らないんだ」

自分に言い聞かせるように、はっきりとそう言葉にした。

どれだけ妃茉莉が頑張っても、それは俺以外の誰にも伝わらない。

妃茉莉の声も姿も存在そのものさえも、なにも形に残せない。

それは逆らいようのない事実なんだ。

「だけど……、だからって絶対に諦めねぇ」

ギュッと拳を握り締める。

いろんな後悔があって、いろんな間違いがあって、いろんな誤解があって。

そのどれもがおかしな結果につながっちまってる。


……――妃茉莉さえいれば。


ふっと頭によぎった考えが、じわじわと心に沁み込んでくる。


そうだ、妃茉莉がいなくちゃいけないんだ。

あいつは俺の部屋で他人ごとみたいな顔してユーレイなんかやってちゃいけないんだ。

困ったように笑う妃茉莉の顔が浮かんだが、俺は頭を振ってそれを追い払う。

「どうやってでも連れて来てやる」

妃茉莉が俺にしか見えないというなら、その役目は俺しかいないということになる。

たとえあいつがイヤがろうと、無理矢理にでもこの間違いは正さなくちゃいけない。

「そして、どんな手を使ってもお前に会わせてやる」

興味なさそうな顔で俺を見る尽に、びしっと指を突きつけてやった。

しかし、対する尽はことさら大げさにため息をついてみせる。

「あのさ、意味が分かんないんだけど」

呆れたような視線に歯がゆい思いがしたが、さすがに今は打つ手なしだ。

「口で言って理解できるもんじゃねーんだよ。準備する時間がいる」

「そんな必要ない。俺は誰とも会う気はない」

きっぱり言い切られた。

尽はこれ以上の会話を打ち切るように、ベンチから立ち上がると俺に背を向けた。

「別にスズカが誰を選んだって俺には関係ない。だけどこれ以上のお節介は迷惑だ」

「違うって。そういう話じゃねーんだよ」

くそ、勘違いしてやがる。って、まぁそりゃ仕方ないか。

肝心なことはなにも言ってないんだ、素直に聞いてくれるわけがねぇ。

尽の腕をつかむと、とにかく必要なことだけ手短に伝える。

「明日だ、明日。同じ時間にこの場所で。必ず来い」

「しつこい。行かないって言ってるだろ」

苛立たしげに、その手を振り払われた。


俺じゃ、ダメなのか。

結局なにもできないままなのか。

自分が変われても、誰かを変えることまではできないのか――。

「……分かった。引き留めて悪かった。これ、返すわ」

再び尽の腕に手を伸ばしたが、妃茉莉のノートだけ手渡した。

ノートを切り札に強制することもできただろうが、そこまではしたくなかった。

他に説得できるだけのものも持ち合わせちゃいない。

完全な手詰まりだ。

「だけど、気が変わったら来てくれ」

最後に未練がましくそう言うと、俺も尽に背を向けた。

自分の無力さが悔しかった。


そもそも最初から俺になにかできたのか?

初めからこうなることぐらい分かり切ってたじゃねーか。

そうだ、また別の手を考えりゃ良いんだ。

これで終わったわけじゃ、ない。

「行かねーよ、バカ」

不意打ちで尽の声が聞こえた。

慌てて振り返ったが、尽はもうすでに俺に背を向けて歩き出していた。

だけどその手には妃茉莉のノートと一緒に、最初にあげた缶ジュースがあった。

少しはなにか伝わったかもしれねぇ。

そう思うだけで胸に熱い感情が込み上げてくる。

「約束だからなっ」

そう叫ぶと、俺も背を向け一直線に走り出した。

〜 続く 〜

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