七瀬が俺の部屋に住みつくことになっても、意外なことに生活はなにも変わらなかった。
なんでもユーレイはご飯も食べねぇし、風呂にも入らないらしい。
物に触ることができねぇから当然と言えば当然なんだが。
一番心配していた寝床については、眠らないから必要ないとあっさり断られた。
むしろ夜はユーレイの時間ですから、なんて妙に気になることを笑顔で言われて、 俺の背筋をぞくりとさせたもんだ。
時々ふらりと外出することもあるが、俺の部屋にいる時は特になにをするでもなく、 たいがい隅っこの方で小さくなっている。
つまんねぇだろうなと思って見ると、なにが楽しいのかニコニコしていることが多い。
まぁそういうところが七瀬らしいと言えばそうなんだけど。
結局俺たちは一緒の部屋にいるだけで、ほとんど話すことはなかった。
そうやって今日も部屋の隅で小さくなっていた七瀬が、突然慌てたように立ち上がった。
「悪りぃ。ビックリさせちまったか」
俺が床にばらまいちまったペンケースを見て、七瀬が静かに頭を振る。
「いいえ。 落ちるのは分かっていたのですが……」
そう言って散らばった床を見つめる横顔は、なぜかとても悔しそうだった。
別に七瀬のペンケースでもなければ、七瀬のせいで落ちたわけでもない。
だけどいつもそんな風だった気がする。
いつだって自分よりも他人のことばかり気にかけているような、そんなすげー損な性格。
だけどそういえば、と俺はふと思い出した。
確か俺もそんな七瀬に助けられたことがあったはずだ。
なんだったか思い出そうと考えていたら、妙に明るい声が聞こえてきた。
「あぁ、これはもしかして!」
「えっ?」
「まだ持っていてくれたのですね」
突然のことに状況が飲み込めず、俺はついぽかんとしちまった。
七瀬は床にしゃがみ込むと、少し興奮気味に言葉を続ける。
「これです。この消しゴムです」
「消しゴム?」
言われるがままに見てみれば、落としたボールペンや鉛筆の中に、 やたらと可愛らしい消しゴムがまぎれていた。
それを拾い上げて、ようやく俺は思い出す。
「そっか。これ、 お前がくれたんだったよな」
「はい、そうです」
嬉しそうに笑顔を浮かべる七瀬を見ていたら、おぼろげだった記憶が呼び起こされる。
「確か俺が消しゴム無くして困ってたら、 隣の席だったお前がこれを使えって……」
別に俺は無くしたとも言ってなけりゃ、七瀬に貸してくれと頼んだわけでもねぇ。
なのに、どうぞと言ってスッと消しゴムを差し出した七瀬の行動に、 ものすごく感動しちまったっけ。
だから柄にもなく、女に礼をしようなんて思ったんだ。
だけど……。
「そっか。ちゃんと礼するとか言っておいて、 結局なんにもしてなかったんだよな」
なんて薄情なヤツなんだ、と過去の自分を恨めしく思う。
対する七瀬は、どこかキョトンとした表情だ。
「あら、そうでしたか?」
あまりににこやかな笑顔で返されると、思わず乗せられそうになっちまう。
絶対七瀬も分かっているはずだ、俺が礼なんかしていないことを。
でもそれを責めるわけでもなけりゃ、期待するわけでもねぇ。
俺に気を使ってか、さらりと流してそんな話は無かったことにしようとする。
「欲がねぇよな、お前って」
七瀬の優しさなのかもしれねぇが、ここで話を終わらせるには後ろめたさを感じた。
せっかく思い出したんだ。
この機に恩はしっかり返しておきたかった。
「あー、やっぱさ。今さらな話で悪ぃけど、 なんか礼をさせてくれよ。 欲しいものとか、やりたいこととか。もちろん俺にできることだけどさ」
「そのお気持ちだけで充分です」
やはり一筋縄では行きそうにない。
ここは多少大げさにでも言わねぇと、頷かせるのは無理そうだ。
「でもそれじゃ俺の気が済まねぇ。 これから先、一生お前に頭が上がらねぇじゃねーか」
「一生、ですか?」
驚いたように問い返す七瀬に、俺はきっぱりと言い放つ。
「お前との縁はそう簡単には切れそうにねぇからな。 これから先つき合っていく相手なら、ちゃんと対等じゃねぇと。 最初から貸しがあるなんて冗談じゃねぇ」
「あの、でも。私はユーレイなんですよ」
「ユーレイだろうとなんだろうと、 お前が七瀬妃茉莉なのには変わりねぇだろ。 俺はお前をユーレイだとは思ってねぇんだから、自分から妙な線引きはすんな」
「でも、あの……」
そこまで言いかけて、七瀬は急に黙りこんだ。
そして顔を真っ赤にしてうつむくと、消え入りそうな声でありがとうございます、と告げる。
あまりに素直に喜ばれてしまい、見ているこっちまで気恥ずかしくなってきた。
「だから、ほら早く。 なんかして欲しいこととか言えよ」
「和馬くんのそのお言葉だけでも十分なぐらいなのですが。 でも、そうですね。もしお願いを聞いてくださるのならば……」
「お、おぅ」
自分から急かしておいて、いざとなったら妙に緊張した。
なにを言われるのかと内心ビクビクしていると、嬉しそうな顔で七瀬が口を開く。
「和馬くんと一緒にお出かけがしたいです」
「え? あぁ。はぁ……」
七瀬らしいと言えばそうなんだが、意外に素朴な願いすぎて、 俺はなんとも間抜けな返事しか出来なかった。
〜 続く 〜