第31話 確信

妃茉莉が帰ってきたのは次の日の夜遅くだった。

それはベッドに横になっていても寝付けそうにないぐらい寝苦しい夜。

ベッドにいる俺を気にしてか、妃茉莉は音もなく静かに現れた。

けれど一緒に連れてきた心地よい涼しさにすぐに気が付き、反射的に飛び起きた。

「なんだ、帰ってたのか」

「ごめんなさい、起こしてしまいましたか」

妃茉莉は申し訳なさそうな顔をしたけれど、それでも幸せがあふれているように見えた。

よほど尽と充実した時間を過ごしてきたんだろう。

はたして俺と一緒にいて、そんな顔をしたことがあっただろうか。

意味もなく、思わずため息が出た。

「いや、寝てたわけじゃねぇし」

妃茉莉がいなかったのはたった一日だったというのに、 その控えめな笑顔も丁寧な言葉使いも、すべてがやけに懐かしく感じた。

調子狂うな、と思いながら乱暴に頭を掻く。

「眠れないのですか」

心配そうな顔をした妃茉莉が、まるで当たり前のように俺の隣に腰を下ろした。

ひやりとした冷たい感触になぜかとてもホッとする。

「お前に話しておきたいことがあって」

「……待っていてくれたのですか」

驚いたようにそう言って、それから嬉しそうに小さく笑う。

そんなしぐさ一つ一つにどうしようもなく安心した。

まだ妃茉莉の隣にいても良いのだと、許された気がしたから――。




暗い部屋に差し込むのは月明りだけだった。

妙に静かな部屋の中で、俺は自分に言い聞かせるように口を開く。

「俺さ、盆が明けたらまたアメリカへ行くんだ。今度はもう逃げねぇ。お前と約束したからな」

「はい、約束です」

妃茉莉は大きくうなずき、指切りでもするように小指を差し出してくる。

だけど俺はそれには応えずに、ぎゅっと自分の手のひらを強く握り締めた。

「不安や恐怖がないって言ったらウソになる。 今だってちゃんとアメリカでやっていける自信なんかねぇんだ。 だけどそれで良いんだって思ってる。俺はダメな人間で、すぐにへこたれて逃げ出したくなっちまう。 だけどお前が叱り飛ばして励ましてくれて、そんで立ち直ってまた前向いて走っていける。 それで良いんだって、そう思ってる」

こんなのただの自分勝手な言い訳でしかないことぐらい分かっている。

分かっていて、それでも俺ははっきりとそう言葉にした。

妃茉莉の白くて小さな手が、今度は俺の握り締めたこぶしにそっと重なる。

「そうですよ。和馬くんなら絶対大丈夫です」

大きく背中を押すように、とびっきりの笑顔で妃茉莉が笑ってくれた。

こんなちっぽけで情けない俺をただ素直に認めて、まるごと許してくれたのだと、思った。


妃茉莉の笑顔は何度も俺を立ち直らせて、進むべき道へと連れていってくれる。

今はもうその強い言葉や明るい笑顔がないと前に進めないんじゃないかと思うほどに、 確かな形で俺の救いになっている。

――今はっきりと、そう確信した。

分かってみると本当に単純で簡単なことで、思わず乾いた笑みが込み上げてきた。

「えぇっ、どうして笑うんですか」

「いや、わりぃ。お前が言うと本当に大丈夫だって思えてくる。不思議だなって、そう思っただけだから」

「も、もう。和馬くんは意地悪です」

妃茉莉はわざと怒った顔をしてぷいっとそっぽを向いて、だけどすぐにお互い顔を見て笑い合った。

特別なにかがあるわけじゃない、ただこうしたなにげない日常の積み重ねがひどく大切に思えた。


俺は一つ息を吸い込むと、再びこぶしに力を込める。

もしこれがうぬぼれじゃないなら――。

「お前はさ、どうすんだ」

え? と言うと、きょとんとした顔で妃茉莉が俺を見上げてくる。

目が合うのが妙に気恥ずかしくて、俺は慌てて視線をそらした。

苦し紛れに、歯切れの悪いぼそぼそした言葉をつなげる。

「お前の声も姿も俺にしか分からねぇし、このまま日本に置いていくってのもなんか後味悪いし。 別にお前さえ良ければ、一緒にアメリカ行っても構わないって思ってっけど」

「私は……」

祈る気持ちで次の言葉を待った。

こんなに緊張したことはない。

喉はカラカラなのに手のひらは汗でびっしょりだった。

心臓がやけに大きな音を立ててバクバクと脈打っている。


――大丈夫、妃茉莉はきっと俺と一緒に来てくれる。


まるで自分に言い聞かせるように何度も頭の中でその言葉を繰り返す。

俺が一緒に行っても良いと言ってる以上、妃茉莉がそれを断る理由はないはずだ。

だいたい妃茉莉は俺に会いたくてユーレイになったんだぞ。

アメリカだろうとどこだろうと俺についてくるしかないはずだ。

「和馬くんのお気持ちはすごく嬉しいです。ありがとうございます」

その証拠に、妃茉莉はそう言って丁寧に頭を下げる。

たまらなく安心して、礼なんかいらねぇよ、とでも言おうと口を開きかけて――、 次の言葉に絶句した。

「でも……、私は日本に残ります」

「えっ」

妃茉莉がはっきりと告げた言葉に、俺は頭の中が真っ白になっていくのを感じた。

〜 続く 〜

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