第32話 天秤

いつものように俺に遠慮してそう言っているのかと思って妃茉莉を見て、 そこではっきりと分かってしまった。

本気で妃茉莉は日本に残るつもりなんだ。

そう思わせるだけの揺るがない強い意志がそこにはあった。

「だってお前、俺がいなくても大丈夫なのかよ。 声も姿も分からないんじゃ人に隠れてこそこそ生きなくちゃならねぇだろ。 前みたいに公園で一人で泣いてたって探しに来るヤツなんかいねーんだぞ」

予想外の展開に俺の頭は軽いパニックになっていて、 とにかく妃茉莉を引き留める言葉を必死で探していた。

対する妃茉莉はどこまでも冷静にそれに答える。

「私は泣いていませんよ」

「あぁ、なんだっけ。涙が出ないとか言ってたっけ。 いや、今はそんなのどうだっていい。 どうしてだ、どうしてそんなに一人になりたがるんだよ」

あの時だってそうだ、俺の八つ当たりの言葉を真に受けて家を出て行っちまった。

この世に一人取り残されて、それなのに本心を隠して無理して笑おうとしてて。 もうそんな妃茉莉は見たくない。

俺が見たいのは、 みっともなく俺にすがりついてでも一緒に生きようとする妃茉莉の本心だけなんだ。

「そう、和馬くんに伝えなければならないことがありました」

引き留める言葉を探している俺に、妃茉莉が静かに口を開く。

どこか嬉しそうで、でも必死にその感情を抑え込もうとしているような、そんな顔だ。

「尽がね、お父さんやお母さんに私のことを話してくれるって言ってくれたんです。 また家族で一緒に住めるようにって。死んじゃって、ユーレイになっちゃって、 そんなのはもう無理だって思っていました。私の居場所はもうどこにもないんだって。 だからまた家族で暮らせるなんて思っていなくて、私すごく嬉しくて」

めちゃくちゃ嫌な感じがした。

さっき帰ってきたばかりの妃茉莉に感じたのと同じものだ。

思わずため息が出てしまうような、言い知れない――不快感。

「これも全部和馬くんのおかげです。本当にありがとうございました」

感謝の言葉を並べて、そうやって深々と頭を下げて、 俺からそれを否定させる言葉を強引に奪っていく。

あらゆる希望や可能性が、どんどん見えなくなっていくみたいだった。

「いや、違う。違うんだ、そうじゃない」

俺は混乱した頭を左右に振って、うわごとのように言葉を続ける。

「尽に会わせたのは、俺がアメリカに行ったあとのことを任せたかったからじゃない。 俺はそんなつもりでお前と尽を引き合わせたわけじゃないんだ」

そう、自分の未来に妃茉莉が邪魔だから、誰かに押し付けたかったわけじゃない。

間違っても妃茉莉にだけはそんな風に思われたくない。

妃茉莉は俺にたくさんのものを与えてくれた。

だから俺も少しでも妃茉莉の力になれたら――と、そう思っただけなんだ。


そんな必死な俺の思いを、知っていますよ、とにっこり笑って妃茉莉が言葉を続ける。

「もちろん尽のおかげで家族で暮らせることになったけれど、 もしそうでなければきっと私は日本に残らなかったと思います。 やっぱり一人は寂しいですしね。あ、でも和馬くんが寂しいって言うなら、 私もアメリカについていった方が良いですか?」

どうしてだろう、ひどく上から目線で言われたような気がした。

それは俺への恩返しか、それとも同情か。どちらにしたって情けない話じゃないか。

「俺は……」

妃茉莉の真っすぐな視線から逃げるように、俺は自分の足元を見つめる。

まるで妃茉莉にはもう俺は必要ないのだと、そう言われた気がした。

俺がいなくたって、妃茉莉には一番望んでいた自分の家族という居場所ができたんだ。

それも俺が手引きして与えてやれた唯一の場所。

「だけど、俺は……」

一緒に過ごしてきて、 これほど妃茉莉が望んだものをあげられたことなんかあっただろうか。

いつもいつも心配や迷惑ばかりかけて妃茉莉を困らせて。 そう、いつだって俺は自分のことばかり考えていた。

それをまた俺は自分のワガママだけで、妃茉莉に与えたものを強引に奪い取ろうというのか。

「…………」

例えば俺と一緒にアメリカまでついて来て、そこで妃茉莉を絶対に悲しませないと言える自信はない。

日本でだってこのザマだったんだ、遠い地でまた自分のことだけで精一杯になって、 妃茉莉を放っておいちまうことだって十分に考えられる。

その時きっと妃茉莉は日本に帰りたいと思うだろう。日本には自分の家族が待っているのだから――。


きっとそういうことも全部含めて、妃茉莉は俺と家族とを天秤にかけて、そして家族を選んだんだろう。

ただ、それだけのことなんだ。

妃茉莉とアメリカ留学を天秤にかけて、俺がアメリカ留学を選び取るように――。



さっきまで確かに感じていた手ごたえが、泡のようにはじけて消えていく。

どんなに手を伸ばしてもこの指をどんどんすり抜けて跡形もなく消えていく。

いや、それははたして最初からこの手の中にあったんだろうか?

すべては俺の身勝手な勘違いだったんじゃないのか。

それこそ、うぬぼれもいいところじゃねーか。


かぁっと顔が熱くなるのを感じて、俺はごまかすように大げさに笑った。

「はは。バカじゃねーの。俺は一人でだって大丈夫だ。だから、お前は家族と暮らせ」

「はい。本当にありがとうございます」

嬉しそうに笑う妃茉莉を見るのが辛くて、俺はベッドにごろりと横になった。

背中越しに感じる妃茉莉の冷たさが、今はとてつもなく遠く感じた。


――これで、良かったんだ……。


何度も何度も心の中でそう繰り返して目を閉じた。

とても眠れそうにない長い夜の暗闇に、身も心も深くどこまでも落ちていくようだった。

〜 続く 〜

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