頭の中が真っ白になったみたいに、 なにも考えられなくなった。
まるで時間が止まっちまったみてぇな感覚だったが、 七瀬の追求の手だけは止まらない。
「そうですか。 やはり和馬くんは留学するのが怖くなったのですね」
「……っ!!」
ズバリ言い当てられて、俺はギリッと奥歯を噛み締めた。
――頼む。
もうこれ以上なにも言うな。
今すぐにでもここから逃げ出したい。
だが七瀬の鋭い視線が俺をその場に縛りつけて離さない。
「私がこちらにお邪魔するようになってから、 トレーニングどころか一度もバスケットボールにすら触っていらっしゃいません。 怪我をされているわけでもなさそうですし、 毎日なにもせず退屈に過ごされているだけです。 とても来月から留学なさるようには見えません」
なにも知らずただへらへらと笑っているだけだと思っていた七瀬に、 こうも的確に言い当てられるなんて。
自覚していたつもりでも、こういう形で突きつけられると無性に腹が立った。
俺がなにも考えずただ怠けていたとでも言いたいのかよっ!?
「うるせぇ!!」
ギュッと拳を握り締めると、そのまま壁に打ちつける。
鈍い音が響いたが、痛みすら感じないほどに気が高ぶっていた。
「お前になにが分かる! バスケのことなにも知らねぇくせして、分かったような口をきくんじゃねぇよ!」
まるで吐き捨てるようにぶつけた乱暴な言葉に、 負けじと七瀬が強い視線を返す。
「ですが、アメリカでバスケットボールをすることは和馬くんの目標でしたよね。 そのために頑張ってきたはずなのに、こんなに簡単に諦めてしまうのですか!?」
一瞬、面食らいそうになった。
まさか七瀬がこんな風に反抗するとは思ってもみなかった。
予想外のことばかりで全然気持ちが追いつかねぇ。
なにがなんだか分からねぇぐらい頭の中がぐちゃぐちゃだった。
「……いけねぇのかよ」
情けない一言だとは分かっていたが、気がついたらそう呟いていた。
まだ俺になにを求めるつもりなんだ。
これ以上俺にどうしろと?
もういい加減にしてくれ。放っておいてくれ。
口に出来ないそんな願いは、七瀬の言葉にあっさりと切り捨てられる。
「和馬くんのことを見損ないました」
「……っ!」
すべてが終わったような気がした。
七瀬はなにも間違っちゃいない。
周りに甘えて逃げ続けていたのは事実。
間違っているのはその事実に向き合えなかった、俺の弱さだ。
分かっていて気がつかないフリをしていた。
すべてから目をそらし、耳をふさいだ。
そうすることでしか俺は自分を保てなかった。
こんな茶番がいつまでも続くわけがないって分かっていたくせに……。
「……出てけよ」
「え?」
俺を見つめる黒目がちな瞳が大きく揺れる。
そこに映り込む無様な自分を消してしまいたかった。
「出てけっつってんだよ! お前の顔なんか二度と見たくねぇ!!」
とっさに掴んだ枕を七瀬に向かって投げつける。
だがそれは七瀬の体をすり抜けて、虚しく床に落ちていった。
ここにいるのは高校のときのクラスメイトじゃない。
俺の中でしか存在できない、ただの身勝手なユーレイなんだ。
「……和馬くんこそ、分かっていないです」
足元に落ちた枕をじっと見つめながら、震える声で七瀬が告げる。
「死ぬこと以上に怖いものなんてあるのですか?」
それは悲痛な叫びのように俺の心を貫いた。
七瀬の本音がズッシリと重く落ちてきて、俺は一言も返すことすらできない。
「和馬くんは生きています。ならばどんな可能性だってあるということです。 恐れて逃げていては前に進むことは出来ません」
ゆっくりと顔を上げた七瀬の中には、もう負の感情は残っていなかった。
未来を見つめるキラキラとした輝き。
それは本来ならばもう二度と持つことの許されない強さのはずだった。
「目先のことに囚われて本質を見失っていては答えは得られません。 逃げずに自分自身と向き合ってください。なにが必要なのか、きっと分かるはずです」
七瀬の言っていることはさっぱり分からねーが、底から湧き上がるような強さだけははっきりと見て取れた。
どうしてだ? どうして七瀬はこんなに強い?
こいつは一度死んじまってんだぞ。
死の恐怖とユーレイであることの絶望を味わって、 それでもどうして前向きに強くあり続けられるんだ?
黙って立ち尽くすだけの俺に、七瀬はいつもと変わらない笑顔を見せる。
それは冷たさも鋭さもない、だけど胸が締めつけられるような切ない笑顔だった。
「やはりお節介でしたね、すみません」
そうやって笑顔で全部隠すのか。
本当は泣きたいぐらいに傷ついているはずなのに。
他でもないこの俺がヒドい言葉で傷つけちまったのに……。
七瀬は最後まで笑顔のまま、礼儀正しく深々と頭を下げた。
「今までどうもありがとうございました。どうぞ、お元気で」
「……え?」
そうだ、出てけと言ったんだ。
今の七瀬には従う以外の選択肢はない。
くるりと踵を返して、窓枠に手をかけた。
七瀬の白いサマードレスの裾が軽やかに揺れる。
だけど、今ならまだ引き止められる。
そう分かっていても、相変わらず俺はなんの言葉も持てずにいた。
うるさいぐらいに鳴いていたセミが一瞬だけ鳴きやみ、 突然強い風が吹き抜けた。
風を受けたカーテンが大きく膨らみ、七瀬の姿を呑みこんでいく。
「……七瀬っ!」
無意識のうちにその名を叫んでいたが、当然ながら返事はない。
風が落ち着いたころには再びセミがうるさく鳴き始めたが、 七瀬の姿はもうどこにも見当たらなかった。
〜 続く 〜