第9話 足りないもの

出てったってどうせすぐに戻ってくるだろうと思っていた。

だって七瀬には俺しかいない。

姿も声も、七瀬の存在を分かってやれるのも俺だけなんだ。

なにがあったって戻る場所はここしかない。

だが夜になっても朝が来ても、七瀬が戻ってくることはなかった。


知らずため息が出た。

別にたいしたことじゃない、ただ七瀬が現れる前に戻っただけじゃねーか。

ただ、それだけなんだ……。

何度そう思おうとしても、気がつくと七瀬のことばかり考えていた。

「あいつ、なにしてんだろうな……」

俺はなにも知らなかった。そう、全然分かっちゃいなかったんだ。

七瀬がいないってだけで部屋がやけに広くて、やたらと静か過ぎて、一人じゃ落ち着かねぇんだ。


早く戻って来りゃいーんだ、バカ!

あんなのただの八つ当たりだって分かってるだろ。

居候のくせに無駄な心配かけさすんじゃねーよ。


――本当に、なにをやってんだろうな、俺は……。


再び深いため息をついたところで、お袋に名前を呼ばれた。

「和馬。昨日の夜、電話があったわよ」

「あぁ、氷室か……」

忘れかけていた七瀬との一件の原因を思い出した。

いや、本当は七瀬に構ってる場合じゃない。

留学のこともちゃんとケリをつけねぇとならねーんだった。

目の前の問題が山積みになっていて、ため息以外なにも出てこない。

「なるほど、そういうことね」

そんな言葉とともになにやら視線を感じてお袋を見ると、 やけに納得したような顔をしている。

「な、なんなんだよ」

ムスッとした声で聞き返したが、お袋はなぜか嬉しそうだった。

「氷室先生も和馬によろしく伝えてくれと言うだけでなにも話してくれないし、 心配してたのよ。でも取り越し苦労だったみたいね」

「はぁ?」

我ながらなんとも間抜けな声が出た。

だけどそうか。氷室は俺のあの対応をお袋には話しちゃいねーのか。

「今だから言うけど、氷室先生から電話がかかってきたら、 和馬は絶対に拗ねて部屋から出てこなくなると思ってたのよ。 でもさすが先生ね。うまく話してくれたみたいでホッとしたわ」

「あ、あぁ……」

なんか話が全然違う方向にいっちまってる気もするが、 つじつまを合わせるように曖昧な返事をしておいた。


お袋は勘違いしちまったみたいだが、実際言い合いになって七瀬が出て行ったせいで、 留学のことを考えてるヒマがなかった。

むしろ今の今まですっかり忘れちまってた。

留学よりも七瀬のことを優先してたなんて、自分でもビックリだな。

「……留学か」

アメリカに行くまではいろんなもんを思い描いていたが、今はどうだろう。

絶対的な壁にぶち当たって日本に逃げ帰って、バスケそのものから目を背けてきた。

周りに甘えて逃げ続けて、そして無責任な言葉で七瀬を傷つけた。


なんて情けねぇんだ、俺は。

本当は分かってるんだ、あいつはもう帰ってこない。

どんなに待ったって、二度とここには戻らないんだ。

唯一の居場所を奪っちまったのは他でもない、俺なんだから……。

「なぁ、もしもだけどよ……」

夕飯の洗い物をするお袋の背中に問いかける。

「もし俺がこのまま留学を止めるって言ったら、どうする?」

賛成して欲しいわけでも、反対されたいわけでもない。

ただ他の人はどう思うのか、それだけが知りたかった。

「そうね。和馬が自分で決めたんなら、母さんは反対しないわ」

「……七瀬とは違う意見か」

そのことに多少なりとも戸惑いがあった。

賛成でも反対でもどっちだって良いと思ってたはずだったのに。

「あら、なにか言った?」

「いや、なんでもねぇよ」

そう言って席を立とうとしたら、さりげなく、でも妙に強さのある声に引き止められた。

「本当に聞きたいのは、そんなことなの?」

「え?」

洗い物の手を止めると、お袋が振り返った。

そのあまりに真剣な眼差しに、一瞬身動きすら忘れてしまう。

「和馬がアメリカでなにを見てなにを感じてきたのかは知らないけれど、 本当に迷っているのは留学じゃなくて、バスケを続けていくことじゃないの?」

「別に、迷ってるわけじゃ……」

つい苦し紛れの言い訳がこぼれ落ちた。


――違う、確かにお袋の言うとおりだ。

そうじゃなきゃ日本に帰ってきてからだってバスケはやれた。

留学を逃げ場にしてバスケそのものから遠ざかっていたのは事実。

だけどそれで結局どうしたいのかは、まだなにも見つけられていなかった。

「だからうまくいかないのよ」

核心を突く言葉に背筋がヒヤリとする。

「アメリカはバスケの本場よ。ただの憧れだけで生きていける場所じゃないわ。 今の和馬には足りないものがあるの。それが分かる?」

「実力が足りねぇって言いたいのかよ」

人に言われるぐらいなら自分の口で言った方がマシだと思った。

だがこれほど屈辱的なこともない。

やりきれない思いで拳を握り締める。

そんな俺にお袋はやれやれとでも言いたげにため息をついた。

「やっぱり分かってないわね」

予想外の言葉に思わず眉をひそめた。

「和馬に足りないのは実力じゃない。もちろん英会話でもないわ。 そんなものは後からいくらだってついて来るんだから」

「じゃあいったいなにが……」

そこまで言いかけて、俺はハッとして口を閉じた。

不意に七瀬の顔が浮かんだんだ。


逃げずに自分自身と向き合えば、必要なものが見えてくると言った。

俺に足りないものってなんだ?

アメリカで見たバスケの凄さに感動して、 一緒に練習させてもらって自分の甘さを痛感した。

なにもかもが足りなかった。

練習メニューをこなすどころか、技術も体力も会話ですらまともについていけなかった。

がむしゃらに頑張れば頑張るほど空回りして、孤独になった。


そう、チームプレーの中でただ一人取り残されていくのが怖かった。

慣れない土地で一人ぼっちになっちまうことが、無性に怖かったんだ。

「そうだ。足りなかったのは実力なんかじゃない」

きっと七瀬は知っていたんだろう。

死ぬことの怖さじゃなく、世界にたった一人取り残されてしまった孤独という怖さを。

なのにあいつは逃げなかった。

なに一つ残されていないのに、それでも諦めないで前に進もうとしてた。

だからあんなに前向きで、輝くように強かったんだ。

「――覚悟、だ」

見えてきた答えをぽつりと呟く。

俺と七瀬の決定的な違いは、そこにある気がした。

「そう、覚悟なんだ。今まで積み上げてきたもんをアメリカで全部なくしちまっても、 それでも諦めずにバスケを続けるだけの強い意志と覚悟が、必要だったんだ」

「ちゃんと分かってるじゃない」

俺の言葉にお袋が満足そうに頷いた。

〜 続く 〜

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